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映画『摩天楼』をめぐるマニアック対談

Part.1 60年以上前から日本人はアメリカ人より正しくアイン・ランドを受容していた!

1. アメリカでは“失敗作”の烙印を押された映画『摩天楼』

佐々木
この映画、アメリカでは失敗作と評価されているようですね。
宮崎
興行成績は振るわなかったようです。不入りの作品は、アメリカでは無条件に失敗作と見なされてしまいますから。「実は興行的にまずまずの成功を収めていた」と主張する論文*もあるんですが、「興行的に失敗だった」というのが常識になっているからこそ、こういう論文が書かれるんでしょうね。
*David P. Hayes (2011). "The Fountainhead movie was a financial success in movie theaters in 1949".
http://www.dhwritings.com/FountainheadMovie/
佐々木
最近アメリカで『肩をすくめるアトラス』が映画化されました。ランド好きの事業家が資金を出し、自主制作・自主上映された映画でした。監督も俳優も、全員が無名でした。『水源』の映画化では、そのようなことはなかったのですか。
宮崎
いやいや、スタッフ、キャストが無名だなんてとんでもない。『肩をすくめるアトラス』の映画化とは、まったく状況が違いました。製作会社は当時ハリウッドで「5大メジャー」と呼ばれた映画会社の一つ、ワーナー・ブラザーズです。監督のキング・ヴィダーは、サイレント時代から名声を確立し、既に巨匠と呼ばれていた人でした。主人公ハワード・ロークを演じたゲイリー・クーパーは、当時のスター中のスターです。今でも「アメリカ映画史上、最も大衆に愛されたスーパースター」と評価されている人です。もっとも20代~30代のハワード・ロークを演じるには年をとりすぎていて、その点がこの映画に対する低評価の要因だったりするんですが(笑)。ヒロインのドミニク・フランコンを演じたパトリシア・ニールは、ワーナー・ブラザーズ期待の新人でした。後にアカデミー主演女優賞も取っています。また、撮影のロバート・バークスはヒッチコックの50年代の一連の傑作を撮った名カメラマンですし、音楽のマックス・スタイナーもワーナー映画の看板作曲家、という具合に、当時の超一流のスタッフ&キャストで作られています。つまり、ハリウッドのメジャー中のメジャー映画会社が、本気でヒットを狙いにいった映画だったんです。
佐々木
そのぶんよけいに、「興行的に不振」の印象が強まったのかもしれませんね。

2.終戦後まもない日本で推定75万人が『摩天楼』を見た

宮崎
ところがこの映画、日本での興行成績は悪くなかったんですよ。日本では『摩天楼』は、1951年(昭和26年)のお正月映画として、1950年の大晦日に、東銀座の東劇(東京劇場)で封切られました。東劇は、1930年(昭和5年)に歌舞伎の上演劇場として開館した劇場です。1945年の東京大空襲で歌舞伎座が半焼して使用できなくなったため、戦後は東京の歌舞伎上演の中心になっていました。1950年12月に歌舞伎座が再建されたのを機に、歌舞伎上演劇場から映画館に転換されました。『摩天楼』は、戦後、歌舞伎上演に使われていた東劇が、映画館として再スタートする時の、こけら落としの作品だったんです。
佐々木
お正月映画で、しかも銀座の名門劇場の再スタートのこけら落としですか。ヒットを義務づけられたような状況ですね。実際の観客動員はどれぐらいだったのでしょう。
宮崎
映画雑誌「キネマ旬報」の1951年2月上旬号を調べてみると、「新春景況」という記事に、『摩天楼』封切後16日間の入場人数が1の桁まで書いてありました。

12月30日~1月5日の1週間‥‥43,406人(公開は12月31日)
1月6日~12日の1週間‥‥‥‥32,019人
1月13日、14日の2日間‥‥‥12,584人
---------------------------------------------------
封切後15日間計‥‥‥‥‥‥‥88,009人

だそうです。
佐々木
2週間で、1館に9万人弱ですか。それはすごい。
宮崎
最初の6日間の入場者が43,406人ということは、1日平均約7,200人の入場者があったということですよね。1日あたりの上映回数や当時の座席数などは不明ですが、連日立ち見が出るほどの盛況だったことは間違いありません。12月31日~1月14日の15日間で入場者88,009人ということは、東京だけでも最終的に20万くらいの入場者はあったと推測できます。その後、全国各地の映画館で半年以上は上映され続けたはずです。
佐々木
日本全国ではどれぐらいの方が見たのでしょうね。
宮崎
東京で約20万人とすると、横浜、大阪は約10万人といったところでしょうか。他に1万~5万くらい入った地方都市が8箇所くらいあると思います。日本全国だと、少なくとも75万人ぐらいの人が『摩天楼』を見たと考えてもおかしくない。昭和26年の日本の人口が8,454万人で、映画館入場者数が7億3,168人だそうですから、一人あたり年間平均8.7本見ていたという時代です。
佐々木
原作の『水源』は2004年に邦訳が出ましたが、読んだ日本人はまだ1万人にも満たないでしょう。60年以上前に映画館で『摩天楼』を見た日本人の方が、約70倍も多いのですね。
宮崎
この「新春景況」という記事には、こんなことも書いてありました。

《『摩天楼』(W・B映画、CMPE配給、11巻、3096m)東劇ロードショー。天才的な建築技師、新聞王、その妻をめぐる三角関係を描くメロドラマ映画で、いわゆる大人向きの映画、正月興行には珍しい重厚な内容である。それに東劇が映画興行に転じての第一回ロードショー映画で、その客足も連日良好で、客層もインテリ層が多くまず順調という處。》

佐々木
「客足も連日良好で、客層もインテリ層が多くまず順調」ですか。劇場の雰囲気がなんとなく伝わってきます。テレビ放送の開始が1953年ですから、この頃はまさに映画が娯楽の中心であったわけですね。
宮崎
僕の両親も映画好きなのですが、この前74歳になる母に、「『摩天楼』っていう映画、覚えてる?」って聞いてみたんです。そうしたら「クーパーが出てる映画でしょ」って即答しましたよ。
佐々木
ほーー!
宮崎
『摩天楼』の公開当時、母は小学生で、銀座の木挽町(こびきちょう)に住んでいました。東劇のすぐ手前の昭和通りに面した一帯です。今では跡形もありませんが、祖父が木挽町の隣の新富町で鋼管を作る鉄工所を経営してたんですね。だから、東劇にはしょっちゅう歌舞伎を見に連れて行ってもらったそうです。祖父が観劇に行くと、中村時蔵(三代目)以下、役者たちが揃ってロビーまで挨拶にきたそうですから、相当のお大尽さまですよね(笑)。母はそのとき『摩天楼』は見てないそうですが、二人の兄が当時この映画を見て、家でこの映画のことを二人でいろいろ話していたのを、よく覚えているそうです。伯父二人もすでに亡くなっているので、今となっては当時の感想を直接聞くことができないのは残念ですが。
佐々木
10歳過ぎの女の子の心に、60年以上も消えない印象を残すほど、兄弟で熱い議論をしていたということですね。たしかに、ちょっとものがわかった子供なら、誰かと内容を議論したくなる映画です。

3.公開当時に日本で作られたパンフレットの格調の高さ

宮崎
この前、神保町の古本屋でこんなものを見つけたんです。公開当時に作られた『摩天楼』のパンフレットです。

『摩天楼』公開当時のパンフレット


パンフレットの中
佐々木
これはすごい! いくらぐらいしたんですか?
宮崎
800円でしたよ。今どき、それほどの価値もないみたいで(笑)。
佐々木
いやいや、これは貴重ですよ。
宮崎
表紙の下に、「セントラル(CMPE)提供」と書いてありますよね。CMPEってなんだろうと思って調べたら、当時GHQ(占領軍司令部)が日本にアメリカ文化を浸透させる目的で設立した、ハリウッド映画の統括配給窓口会社「Central Motion Picture Exchange」の略でした。当時の日本では、GHQが「これは日本人に見せてよい」と許可した映画だけが上映できたんです。
佐々木
1950年と言えば、朝鮮戦争が勃発した年です。ちょうどこの頃に、公職追放の対象が「戦争協力者・軍国主義者」から「共産主義者」に切り替わったようです。『摩天楼』は、冷戦を背景に民主化から反共に転換した、アメリカの対日政策にも合致した映画だったんですね。
宮崎
このパンフレットで、映画の主題やストーリーが詳しく紹介されているのですが、この紹介文がなかなか格調高いんです。これ翻訳じゃなくて、書いてますよね。提供された英文資料をただ訳した文章には見えません。

解説

エイン・ランド嬢の同名ベストセラー小説の映画化で、彼女自身が脚色に当り、「テキサス決死隊」「麦秋」近くは「白昼の決闘」などの巨匠キング・ヴィダーが監督に当たった、一九四九年度のウォーナー大作である。
これは個人の独創力と個人の尊厳が、総ての法の上に存在するという、個人主義の絶対性を主張する注目すべき作品である。映画に登場する主要人物は、革命的独創力を持った建築家と、凡俗な世間に絶望を感じている激しい気性の女性と、輿論の力を信じ、輿論を作り出す自分の力に絶対的信頼を持つ新聞人の三人で、この強烈な個性を持った三人が、それぞれの信念と人生観を以て、反発し相寄り、また激しい愛欲の世界で切り結ぶという劇的構成と堂々たる風格をそなえた作品である。
製作は「黄金」「花嫁の季節」のヘンリイ・ブランク、「黄金」「カサブランカ」など数々のウォーナー映画でおなじみのマックス・スタイナーが音楽を担当しロバート・バークスが撮影を監督した。
主演は「ヨーク軍曹」「打撃王」のゲーリイ・クーパー、「恋の乱戦」で映画デビューし、その演技力を買われた新星パトリシア・ニールの二人で、彼等をめぐって、「失われた心」「毒薬と老嬢」のレイモンド・マッセイ、「らせん階段」のケント・スミス、「ドン・ファンの冒険」のロバート・ダグラス、「少年の町」のヘンリイ・ハル、「我等の生涯の最良の年」のレイ・コリンズ「西部の王者」のモロニ・オルスン、「花嫁の季節」のジェローム・コーワン、「恋の乱戦」のポール・ハーヴェイ等が助演している。

物語

 ハワード・ロークは、現代の建築家が世俗におもねり、古い建物のスタイルを引写して、個性も独創もない建築に専念しているのに飽きたらず、用途に応じて斬新独創的な建築の設計を志していたが、それ故に学校を追われてしまった。また彼と志を同じうする建築家のヘンリイ・キャメロンの失意と窮乏の悲惨な末路や、世俗と妥協することによって、当代一流建築家の名声をほしいままにしているピーター・キーティングの成功をみても、おのれの節を曲げようとせず、そのためしばしば機会をのがして貧困の中に埋もれていた。
 ニュー・ヨークの大新聞「バナー」の社長ゲイル・ワイナンドは、彼の関係する銀行の建物を新築することになり、建築家の選定について専門家の意見をちょうした。人気のある建築批評家トゥーヘイはピーター・キーティングを推せんした。当代の指導的建築家と目されているガイ・フランコンの娘ドミニクは、キーティングが彼の父のパートナーで、かつ彼女の婚約者にもかかわらず、彼を三流建築家と評してはばからなかった。ドミニクは気性の激しい女性だった。彼女はこの世が美や天才や偉大さに機会を与えないと絶望していた。彼女はキーティングと婚約したものの少しも愛していなかった。そればかりか、これからも誰をも愛することはないものと考えていた。彼女は全くこの世に期待を持たなかったし、自由だけが彼女の友であったので、貧民窟から身を起こし、力が総てであると信じていた立志伝中の人ワイナンドから求婚された時も、全く取り合わなかった。
 きまぐれな彼女が、時季ならぬ時にカネチカットの別荘に出かけて、父の石切場を見廻っている時、じっと彼女を見詰る石切工夫があった。男は彼女の心に火をそそいだ。彼女が口惜しさの余り鞭で殴りつけなければならなかった男、夜中寝室にしのび込んで、彼女の口びるを奪ったその男。男はその翌日石切場から姿を消していたが、彼女には忘れることが出来なかった。彼女は名も知らなかったが、男はハワード・ロークであった。ロークは生活に窮したあげく石切工になり下がっていたが、ロジャー・エンライトなる人から至急会いたいと手紙を貰って、急いでニュー・ヨークへ行ったのだった。
エンライト氏の新奇なスタイルを持った豪華なアパートは、俄然世間の注目を浴びた。建築家たちはその新奇さを理解出来ず、民衆は豪華さを非難すれば、バナー紙はその輿論をあおり立てた。その中でドミニクは、建築家ロークの天才に驚嘆した。落成の招待日に、彼女はロークがかつての石切工であることを知った。
 二人は初めて互に胸の中を打ちあけたが、ドミニクはロークが一介の石切工であったならどんなにいいだろうと思った。彼女は世間を憎み、世間の力を恐れていた。世間とは天才を憎み、天才を破壊すくものだ。この素晴らしい建築はロークの出世の糸口ではなく、却って彼の死の宣告であると、彼女には思えてならなかった。彼女は愛する男の破滅を見るにしのびず、彼から去って行った。だがロークは、彼女ほどに世間に対し懐疑的でなかった。世間はついに自分の才能を理解するに違いない。そして彼女がこの胸に帰って来る日を何年でも待つ決心をした。
 愛するが故に愛人から去って行ったドミニクは、自ら進んでワイナンドと結婚した。一方ロークにはその後仕事はなかった。彼はエンライト氏のように自分自身の目と思想を持った人が世間にあることを信じていたが、自ら彼等を求めようとはせず、数年が過ぎた。
 ある日ロークは、ワイナンドに呼ばれてカネチカットの田舎の別荘の設計を依頼され、それを機会に二人は肝胆相照す仲になった。ドミニクは、立場の対立した、征服されることを好まない二人の男の打ちとけた様子を理解することが出来なかった。いや彼女はロークと夫の仲の良さをしっとしているのだ。彼女の感情にお構なく、男二人の仲は益々親密になり、ワイナンドは、彼の生まれた貧民地帯に建設しようと幼い頃からの念願だった世界一の摩天楼ワイナンド・ビルの設計依頼を、ロークに約束するほどになった。
 ロークの名は次第に大きな存在になって来たが、それにひきかえ、キーティングはパートナーのフランコンが引退して以来評判が悪く、彼の時代はすでに過ぎてしまった。彼は、今世間の注目の的になっているコートランド・ホームの設計をして、没落を一時にもり返そうと考えた。だがこれは最低の費用で最高の技術を要求する難しい仕事で、有数な建築家の設計がみな採用されなかった程だったので、彼には到底望むべくもなかった。彼はロークを訪ね、苦ちうを訴えて援助をこうた。ロークは快くそれを引受けたが、唯一つ彼の設計を少しも変更しない条件を確約させた。ところが建築主側の要求で、キーティング必死の食い下りにもかかわらず、設計は変更を余儀なくされてしまった。キーティングからその旨打ち明けられたロークは、彼への愛情をこれ以上抑えることが出来ずに彼のもとに帰って来たドミニクの手助けを得て、ある真夜中、建築中のコートランド・ホームを爆砕してしまった。
 ロークは捕えられ裁判に付された。輿論は彼の行為を、民衆の利益を考慮しないエゴイストの仕わざと断じて、非難を集中した。その中でワイナンドは唯一人ロークの味方だった。彼はバナー紙に、ロークよう護の論陣を張った。ロークは法廷で、爆破の動起について一言も口をきかなかったが、ピーターはたまりかねて、設計がローク自身のものであることを告白した。それはロークを危険人物とし、彼の立場を一層不利にした。ワイナンドの論調は、大衆をバナー紙に背を向けさせる結果となり、紙は没落の危険にひんした。重役会はローク支持に反対し、ワイナンドもついにそれに屈伏した。
 辛辣な検事の論告の後をうけて、ロークは立ち上がった。人類を今日の高さに押し進めたのは個人の独創力である。創造する者は自然を相手に戦って来たので、他人にサーヴィスするために戦って来たのではない。人間は他人の道具ではなく、自分の考えに基いて行動すべきものだ。人間から思考力を奪い、魂のないロボットにし、彼等を一介の道具として利用することは危険だ。最も高貴な国の基礎は個人主義の原理の上におかれねばならない。と個人の力の尊厳を力説し、自分の財産であるアイディアを守るために爆破しなければならなかったと弁明した。
 無罪の宣告が下った。ワイナンドはおのれの節を曲げたことを恥じ、念願の摩天楼の建築をロークの手にゆだねた後自殺してしまった。天摩楼はワイナンドの遺志をついで、着々とその高さを増して行った。ドミニクはある日工場にロークを訪ねた。雲にそびえる大ビルの頂上で、二人の愛情は一緒になった。

◎パトリシア・ニール

 ウォーナー映画「恋の乱戦」(ロナルド・リーガン主演)でお目見得ずみだが、彼女の本格的登場はこの「摩天楼」である。「恋の乱戦」は彼女のスクリーン・デヴューであるが、彼女を今日ウォーナーのホープとし、新人中の新人とハリウッドに謳わしめたものはこの「摩天楼」で、ハリウッド入り二本目の映画がキング・ヴィダーの大作に堂々クーパーの相手役とあって流石のハリウッド雀をびっくりさせた。
 大きな眼といささか大きすぎる口が特長で、所謂美人の
型ではないが非常に感性の豊かな演技は第二のペティ・ディヴィス(容姿も似ている)と評判され、最近珍らしく演技女優として堅実なスタートを切った。将来大物を期待される女優である。
 彼女の演技はブロードウェイの本舞台で磨きがかかっている。彼女の舞台歴は決して長くない。俳優修業一年。オニールの新作「私生児」で端役を貰い、シアター・ギルドの名優グドリイ・デイジェスに起用されて彼のカナディカット夏期地方公演に出演、この「負けた者こそ災難だ」の上演に立ちあったリリアン・ヘルマン女史(著名劇作家)とリチャード・ロジャースが彼女の才能を認め、ヘルマンは自作「森の他の部分」に彼女の出演を推せんした。この芝居で彼女は雑誌、新聞から一九四七年のブロードウェイ新人女優中最優秀演技と評されて五つの演技賞を貰った。
 かくの如く彼女は彗星的な天才女優と云ってよい。ウォーナーに早速招かれ「恋の乱戦」から一躍「摩天楼」に抜擢、続いて名作の呼声高い「性急の心」(ヘイステイ・ハート)に主演と早くも三作でスタアとして地位を不動のものとした。
 一九二六年ケンタッキー州バッカードの生れで、ノース・ウェスタン大学演劇科を二年で中退し、少女の頃からの好きな芝居に進むべくニュー・ヨークへ出た。生計を立てるために病院につとめたり、ホテルの出納係をしたりモデル事務員何でもやった。俳優修業のかたわらの生活は苦闘を物語っている。
 本名はパッツイ・ルイーズ・ニールと云う。この「摩天楼」出演中、彼女に関心したゲイリイ・クーパーが「今もっているものを決して失くし給うな。熱情をもちつづけ給え」と言ったという。

◎ゲイリイ・クーパー

 一九一〇年モンタナ州ヘレナに生る。本名はフランク・J・クーパーと云い、英国ダンスティブル学校に学び帰米後アイオワ大学を卒業した。  ロスアンゼルスの新聞に挿絵画家として働らきながら俳優志願のチャンスを狙い、サミュエル・ゴールドウィンの「夢想の楽園」(ロナルド・コールマン主演)に出演してゴールドウィンの着目する所となったが、パラマウントのB・P・シェラバーグが引き抜いてパ社の西部劇に起用す。トーキーの勃興と共に「ヴァージニアン」「七日間の休暇」「テキサス無宿」で売り出し、「モロッコ」は名作のほまれと共にクーパーの人気を不動のものとした。その後「市街」「生活の設計」「ベンガルの槍騎兵」「永遠に愛せよ」「真珠の頸飾」「将軍暁に死す」「平原児」(パラマウント作品)、「結婚の夜」「マルコポーロの冒険」「牧童と貴婦人」(ゴールドウィン作品)、「今日限りの命」「砲煙と薔薇」(MGM作品)主要映画は殆どが輸入され、クーパーの人気はむしろ日本の方が高いくらいである。  近作ではセシル・B・デミルの「征服されざる人々」(公開未定)、マイケル・カーティスの「輝く葉」がある。》


佐々木
書き手の熱意が伝わってくる文章です。原作に込められた思想や意図を、正確にとらえていると感じます。

4.ランドのメッセージを正しく理解した昔日の日本の映画評論家たち

宮崎
日本で公開当時この映画がどう評価されていたのか知りたくて、当時の映画雑誌ですとか、その頃活躍していた映画評論家の本を、いろいろ調べてみたんです。そうしたら、なかなか見事な批評文が見つかりました。数年前に99歳(!)で亡くなった、双葉十三郎さんという高名な映画批評家が、公開当時に書いた『摩天楼』評です。

《映像作家たること三十年、キング・ヴィドアつくるところの数々の名作をつらぬくものはヒューマニズムの精神であり、強烈な人間像の鏤刻である。いろいろハリウッド的制約にさまたげられて、すべての作品にまったき自身を展開することはできなかったけれど、どの作品にも彼の刻印ははっきりと押されている。
 この作品はエイン・ランドの長編小説の映画化で、脚本も原作者自身が担当しているが、主人公はハワード・ロークという建築家(ゲーリー・クーパー)である。彼は学生時代から伝統に反抗して退学処分をうけた自我のつよい人間であり、やはり自己に忠実であるため世に容れられぬヘンリー・キャメロンの事務所で働くことになるが、キャメロンは不満を酒にまぎらせ横死してしまう。学校時代の友人で実力もないのにいまは社交術でいっぱしの売れっ子になっている建築家ピーター・キーティング(ケント・スミス)は、ハワードに世間と妥協しろとすすめる。ちょうどそこへ、ある信託銀行が新社屋の設計を依頼してくる。ハワードは設計したが、重役会がその設計の変更を求めたのを拒絶したため契約を解除され、コネティカットの花崗岩採掘場の人夫に身をおとす。彼はここで石切場の持主フランコンの娘ドミニク(パトリシア・ニール)に会う。彼女はキーティングの婚約者で建築の解説記者でもある。彼女は石切場で偶然ハワードに眼をとめ、人夫らしからぬ彼に興味を感じ、別荘の暖炉の大理石をわざとこわし、ハワードに修理を命じる。彼は彼女の高慢な態度を鼻のさきであしらう。自尊心を傷つけられた彼女は馬をとばして石切場へゆき、ハワードを鞭でなぐる。その夜ハワードはドミニクの別荘へゆき男性の力に物をいわせる。
 展開はだいたい右のごとくであるが、この作品は二つの角度から深い感銘をもたらす。一つは表現におけるヴィドアの映画的感覚である。巻頭、退校されたハワードが転々とする場面の積み重ねかたの巧みさにはじまり、ヴィドアの演出は凄絶と形容したいような切れ味を示している。俗な表現を以てすれば、すばらしく気合いがかかっているのである。フォトジェニックに最も見事なのは、石切場におけるハワードとドミニクの場面で、ハイライトをきかせた構図の印象的なこと。また、それらの画面のつなぎかたの呼吸のすばらしいことは特筆に値する。ドミニクが馬を駆る強烈なショットも注目しなければならない。ドミニクの別荘の場面における二人の扱いかたにも寸分の隙もない。
 この映画的感覚とともに、いやそれ以上に称揚したいのは、ここに盛られた人間精神尊重の強烈な主張である。ここ十年間、アメリカ映画ではヒューマニズムが一つの合言葉になっているが、そのヒューマニズムとは何か。もちろん隣人愛とか家庭愛とか、人の性は善なりとかいうことも、一般にはヒューマニズムといわれている。今日までのアメリカ映画のヒューマニズムは、この範囲を出ていない。そこに僕の不満もある。『わが谷は緑なりき』をも含め、これらはすべて善意映画と呼ばれるべきものである。それもまことに結構で、善意に満ちたものは美しく人を感動させる。が、真のヒューマニズムというものは、人間の尊重である。人間精神の自由の確立である。言葉は同じヒューマニズムでも、内容的には善意趣味とまるで別物の観を呈する。換言すれば、これは人間成立の根本条件である。
 こういう点で『摩天楼』は注目しなければならない。戦後やたらに公開された善意映画、いわゆるヒューマニズム映画とは別個な、真のヒューマニズム映画だからである。この作品に登場する主要人物は建築批評家トゥヒーにいたるまで、自己を死守しようとしている人間ばかりである。それらの人物が噛み合うところに、従来のアメリカ映画には容易に見出せぬ、まったく独自の興味がある。はげしさがある。が、ヴィドアがうちこんでいるのは主人公ハワードであることはいうまでもない。そのハワードは、自分の設計とちがうといって建築中のビルディングを爆破する、そんな気狂いじみた真似をして何がヒューマニズムだ、というひとがいるかも知れないが、それは単に作者の手段である。この映画では、隣人や家人がお互いに愛し合うことなどを説いていない。主張しているのは、個々人の精神の自由の確立であり、煽動者の手によって左右されない確固たる自己の把握である。クーパー扮する建築家ハワードはその象徴である。それが人間たるものの根本である。妥協はそのあとで生れる。レイモンド・マッセイ扮する新聞社社長ワイナンドは戦いの末、力つきて妥協を余議なくされ、みずから生命を絶つ。僕たちは、多かれすくなかれ、マッセイとおなじ立場におかれている。まだ自殺しないのは、生への未練があるためと、あきらめて妥協することになら狎らされているためである。
 こう考えてくると、『摩天楼』が示す問題は、隣人愛や家庭愛より、はるかに根本的なものであることがわかる。『わが谷は緑なりき』や『ママの想い出』や『我が道を往く』の風景は、僕たちをいい気持ちにさせたり泣かせたりするが、『摩天楼』は僕たちをもっと切実な気持ちにおいこみ、考えさせ、恥入らせ、発奮させる。監督者キング・ヴィドアもおそらく同じ気持ちだろう。今日までの長い年月の間、彼は幾度か自分自身の作品をつくり、興行的に失敗し、妥協を余儀なくされ、また自分の作品をつくり……という道を辿ってきたのである。('50年12月公開)》

佐々木
『摩天楼』の思想世界に対する、双葉氏の熱い共感が伝わってきます。「善意映画」という造語もすばらしいです。公開当時日本にもこれだけ正確な理解者がいたというのは、日本人として誇らしくもあり、嬉しくもあります。まさに日本におけるランド受容史の嚆矢ですね。
宮崎
双葉氏のこの批評を読むと、昔の日本には確かに「映画評論家」という職業が存在していたのだなあ、ということを実感させられます。
佐々木
調べてみると双葉十三郎さんという方は、戦前から半世紀以上にわたって活躍された、映画評論界の大御所的存在の方だったようですね。検索すると、4年前にお亡くなりになった時の追悼記事が、次々に出てきます。「スクリーン」という映画専門誌に40年にわたって連載された「ぼくの採点表」という記事は、映画ガイドとしてバイブルとまで言われたのだとか。「ぼくの採点表」での双葉氏の評価を一覧にして、ネットで紹介している映画ファンの方がいたので見てみると、『摩天楼』は星4つの「ダンゼン優秀」にランク付けされていました*。

*「1940年代・1950年代 ぼくの採点表 by Juzaburo Futaba」
http://www.tcp-ip.or.jp/~iwamatsu/best10/futaba4050.htm (岩松走氏「LET'S READ THE FILMS !」)

宮崎
双葉さんの「ぼくの採点表」は、僕も子供のころから愛読していました。でも双葉さんの文章は、対象作品をユーモラスに、ちょっとからかい半分でコメントしながら軽妙に評するという体のものが大半で、ここまで大真面目に正面きって書いているのはちょっと意外な気がします。
佐々木
嘲えば自分が嘲いの対象にならざるをえない作品であることを、正しく見て取ったのでしょうね。
宮崎
もう一つ、こちらは「映画評論」という雑誌の1951年3月号に掲載された、和田矩衛さんという方による「濁りなき怒りを」というタイトルの『摩天楼』評です。この和田矩衛さんがどんな方なのかは、『現代映画講座』(東京創元社)という叢書の編者だったということしかわかりませんでしたが、当時の映画批評の世界でそれなりの地位にあった方だと思います。『摩天楼』を「貴重な失敗作」と評したり、「何よりも好きな映画」で「他の多くのアメリカ映画と比べて相当に高く評価するのにやぶさかでない」と評したりで、ちょっとどっちつかずな感じです。

《映画『摩天楼』を支えている興味は二つある。一つは原作の骨格であり、他の一つはこの様な難しい題材に取組んだキング・ヴィドアの勇気である。
 エイン・ランドの原作についてふれるのは今の私の役目ではない。しかし原作者である彼女が自ら脚色の役を買って出ている以上、彼女が原作で主張しようとしたものは、そのままこの映画に出ているものとみて好い。きく處によれば、この原作「礎石」の最初の映画化を考えたのはバアバラ・スタンウィックであるという。それがパトリシア・ニイル(に)代り、作品化されるまでにどんな経緯があったか知らないが、結果においてこの変更は、エイン・ランドの為には幸いなことであったと思われる。スタンウィックであったら、今私達の眼前にあるものより、ずっとドミニックにかかって行っただろう。その為に或はロオクとドミニックの戦いは火花を散らすものとなり、別な面白さを示したかもしらないが、作品そのものの比重はもっとアンティイムなものとなり、エイン・ランドの意思はゆがめられてしまったに違いない。事実映画の上でも二人が出あうまではニイル扮するドミニックの舞台である。社会のできごとを斜めに眺め、拘束されることをいとうドミニックは、愛するが故に貴重な彫像をこの世から廃棄する女である。激しい情熱と、それを否定しようとする理智の相剋に悩む女である。その相剋が地についているという点で(パトリシア・ニイルはよくこの至難な性格を表現している)映画に現れたユニイクなものといって好い。こうした女だから普通の男ではない。それは文明のもたらした悲劇の一つともいえる。こうしたテエマだけでも面白い。だがシナリオはここから一本槍にロオクの世界につき進む。みている方は一寸肩すかしをくった感じである。ことにヴィドアの今までの作品を知っているものにはその感が深い。この肩すかしの為に、ドミニックという興味深い女性は後半ほとんどぼやけてきている。
 この二者択一のテエマで、女性であるエイン・ランドが、ドミニックをふりすてたということは、彼女が原作者であるからということだけでなく、映画の上ではふりすてられたドミニック的なものを、そうすることによって貫き通したのだとみても差支えあるまい。そうした一本調子は、複雑に盛り上がってくると思われた後半をいささか単調に、手前勝手に割りきりすぎた様である。文明そのものにというより、文明によって見失われたものに対する社会の態度に向かって強いプロテストがこれではあまり露骨にすぎる様である。ここに示されている勝利は、征服の形をとっている。破壊が言論によって正当と裏付けられているとはいえ、正当と認められる主張の前には暴力を肯定するという域に走り込んでいないとはいえない。このせっかちな表現は、茫大な原作に対して映画脚色が陥るいつもの罠に陥ってしまっていることは疑えない。デモクラシイの陳腐さに反抗したこのストオリイを、アメリカの批評家も観衆も、小説ではうけいれたが、映画では否定した。これは喜んで好いことか悲しむべきことか早急には判定し得ない問題である。
 映画というものを知り尽している筈のヴィドアがこのシナリオを呑んだということを考えて行くと、彼はこのシナリオによって映画を作ることに、ハリウッドと、アメリカ映画観客に対するプロテストを試みたのではないかと思われる。そうした意味では「ハレルヤ」「群衆」「春秋」の系列に属するようにみえるが、彼の持ち前である豊かな情感は、すべてのショットに行きわたって、味気ない主張劇に陥りきりになることをさけている。二つのテエマのうち切りすててしまった今一つのテエマを選んでいたら、選びとったナマなテエマに示したこの豊かな情感から推しても、彼の代表作である「南風」「シナラ」に比敵するものができたに違いない。ふとみすごせばみ忘られてしまうかもしれないこの二名作は、静かではあるが、底には深い抗議を抱いていた。だからこそ人の心にいつまでも残り、忘れ難い数々のイメエジを思い起させるのである。
 「春秋」が貴重な失敗作であったように、「摩天楼」も彼の作品経歴の中での貴重な失敗作なのではあるまいか、この一つの原作は彼にとって貴重な失敗作の要素と共に、貴重な名作となり得る要素を持っていた。それはヴィドアの悲劇でもあったが、同時に脚色者エイン・ランドの別な悲劇でもあったといえる。だがここに示された彼らの勇気は高く買わなければならない。
 以上の評価はこの作に対して酷であるといわれるかもしれない。私個人としては『摩天楼』は何よりも好きな映画であり、同時に他の多くのアメリカ映画と比べて相当に高く評価するのにやぶさかでない。しかしこの映画で作者達が何を云おうとし、内をいい得、又何をいい得なかったかということを考え、その理由をつきつめて行くと、やはりハリウッドという影につき当らざるを得ない。だが敗れたとはいえ彼らの勇気と情熱とは、私達に多くのことを思わせる。日本映画にこれだけ骨格の通ったテエマの半分だけでも示されたことがあったろうか。その淋しい自問自答をこの映画をみた日本の観客のほとんどすべてが抱いたに違いない。人間そのものの本質に対する反省から発した怒りは、その実現の外面的な現れの強弱は別として、特に文学、映画、演劇等の芸術の根本である。怒りに濁りがあるとすれば、それは反省の深さに至らなさがあるか、或は反省に基かない怒りかの為である。「摩天楼」には意余って力足らずの腰砕けの感は免れない。しかし一本の大道はまっすぐに貫いている。そうした意味で、配役やその他にいろいろと布石をしながら、実験の場を戦いとって行く作家精神のたくましさに、彼我の相違の甚しさをつくづくと思わせられる。
 「摩天楼」の様に、特異な性格を持っている作品になると、演技者の芸格というものが他の場合以上に決定的な要素となってくる。流石に準主役ともいうべきレイモンド・マッセイは見事であるが、トゥーイに扮するロバート・ダグラスにはもう一廻り大きな配役がほしかった。法廷でのロオクの最終弁論はワイナントを破ったトゥーイにとって、ワイナント以上の打撃であった筈である。ヴィドアもちゃんと二つのカットをトゥーイに用意してあるにかかわらず、最も大切なこの場面でロバート・ダグラスはなす処を知らずという有様であった。工事場でふとロオクを掴まえた時にもちらりとみえた弱体さは、ついに最終場面での大きな欠陥となってしまった。ケント・スミスのキーティングが余りにも形通りでありすぎたことと共に、この二つの配役は後半あせりすぎた作品を裏側から支える柱の役目を果し得なかったものとして大いにとがめられてよいであろう。キーティングには単なる要領ばかりの意気地なしというより、文明のうみ出した一つの奇型としてのそれが表現されなければならなかった筈である。》

佐々木
作品の背後に明確な思想があって、その思想が大多数の観客からは容易に共感され難い思想であることを見抜いた上で、大多数の観客の共感を勝ち取ることには失敗している、と評しているのでしょう。「日本映画にこれだけ骨格の通ったテエマの半分だけでも示されたことがあったろうか。その淋しい自問自答をこの映画をみた日本の観客のほとんどすべてが抱いたに違いない」という表現には、ぐっと来ました。当時の日本の評論家たちの方が、ランドが作品に込めた意図を、今の日本の評論家たちよりもずっと素直に汲み取っていると感じます。「Fountainhead」が「礎石」になっているのはご愛嬌ですが。
宮崎
本国とちがって、公開当時は誰ひとり原作を読んだ者などいなかったはずなのに……。それがかえって先入観なく、すんなりと映画に向き合うことにつながったのでしょう。

5.日本の映画評論家87人が選ぶ“とっておき洋画ベスト109”(1992年)で『摩天楼』は2位!

宮崎
1992年に文春文庫の一冊として出た『洋・邦名画ベスト150~中・上級編』という本があるのですが、この本の「外国映画篇ベスト109」で『摩天楼』は堂々の2位になっています。

佐々木
ベスト109で2位!!
宮崎
もっともこの本は、『大アンケートによる洋画ベスト150』(1988年)と『大アンケートによる日本映画ベスト150』(1989年)の続編として企画されたもので、日本の映画評論家たちに、前記2冊で「ベスト150」に選ばれなかった作品のうち、「心に大切にしまっておいた」「個人的に偏愛する」「密かに隠しもっている“裏ベストテン”」「これを機会に読者に是非見てもらいたい」といった意味で“とっておき”の外国映画を10本、日本映画を5本を回答させたアンケートが元になっています(対象は1989年以前に日本で公開された映画に限定)。アンケートには87人の映画評論家が回答しています。
佐々木
「ベスト150」の映画は始めから除外されているのですね。それでも2位というのは大したものです。
宮崎
アンケートに回答した87人の映画評論家のうち、『摩天楼』を“とっておきの外国映画ベスト10”の1本に挙げたのは、次の6人の方です。

氏名(肩書、1992年当時の年齢)、『摩天楼』の評価
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白井 佳夫氏(映画評論家、60歳)、7位
畑 暉男氏(映画史家、57歳)、2位
長谷川 正氏(映画ジャーナリスト、58歳)、8位
乾 直明氏(映画評論家、62歳)、1位
石川 博康氏(日本映画ペングラブ会員、79歳)、8位
矢野 誠一氏(演劇評論家、57歳)、4位
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佐々木
87人中6人の投票で2位にランクインしたわけですか。おそらく、“とっておきの映画”ということで票が分散したせいで6人もの評論家がベスト10に入れる作品が珍しかったのと、1位、2位を含む上位に挙げる方が複数いたことが、原因でしょう。
宮崎
それだけ『摩天楼』が、他の映画にはないものを持っていて、しかもある種の人の心に深く刺さったのだと思います。キネマ旬報の編集長だった白井 佳夫氏は、この本で『摩天楼』の解説もしています。

《「爆発的な映像エネルギーを噴出させる孤高のアメリカニズム映画」
白井佳夫(映画評論家)
『摩天楼』は、サイレント時代からのアメリカ映画の巨匠キング・ヴィドア監督が、女性作家エイン・ランドの小説を、彼女自身のシナリオによって、ダイナミックに映像化した、黒白スタンダード画面絶頂期の、ハリウッド映画の秀作である。
 ゲイリー・クーパーが演じるのは、いつもの映画の彼とはがらりとイメージを一新した、理想主義者の超人的な天才建築家である。アメリカ社会の商業主義とはあいいれず、石切り場で肉体労働者としてドリルを握って働いているという、筋骨たくましい、いっさいの妥協を許さないアメリカ人だ。
 彼とその仕事に魅かれる大新聞の女性建築記者を演じるのが、パトリシア・ニール。自分が男性に魅かれ、彼に屈服することに屈辱を感じる自立した誇り高き女性で、自分を追ってきたゲイリー・クーパーを(引用者注:ここは執筆者の記憶違いで、じっさいはニールが馬に乗ってクーパーを追いかけてくる)乗馬用のムチでうちすえる、という気丈なヒロインだ。
 彼女の上司である、大新聞社の社主で、一代で財をなした反骨の人物を演じるのが、レイモンド・マッセイ。部下のパトリシア・ニールに求愛し、この誇り高く傷つきやすい女性を、庇護しようとしている。
 そして、彼女は同類の人間であるゲイリー・クーパーと愛しあっていながら、傷つけあい破滅に突き進む危険を思って、社主と結婚する。そんな時、ヒーローと大学同期の世俗的成功をおさめた設計家が、大仕事を依頼されて、ゲイリー・クーパーに巨大ビル建築のアイデアを求めてくる。
 クーパーは、いっさいの設計変更をしない約束で、その男の名前でビルを設計してやる。だがその男は、資本家の要求に屈して、たちまち安易な変更をしてしまう。怒ったクーパーは、自己の建造物と自らのアイデンティティを守るために、建てかけのビルをダイナマイトで爆破してしまうのだ。
 名優レイモンド・マッセイの反骨の新聞社社主は、裁判の法廷に立たされたゲイリー・クーパーの立場に否定的なキャンペーンをはる。この自分と同じ、何ものにも屈しない誇り高い男を試し、妻と自分の結婚に正当性をもたせるためにも。こうして、映画は壮絶なクライマックスを迎えることになるのである。
 名手ロバート・バークス撮影の画面が、ダイナミックな演出によって爆発的な映像エネルギーを噴出させる、すさまじい孤高のアメリカニズム映画、それがこの『摩天楼』なのである。》

佐々木
若き日に『摩天楼』に出会った白井氏の、興奮が伝わってきます。
宮崎
私自身も中学生のときにテレビ放映の吹替版でこの映画を見て、やはり強烈な感動を受けました。その感動の正体を突き止めようと探っているうちにここまできてしまったんですが・・・(笑)。この本の冒頭には、作家の赤瀬川隼氏、長部日出雄氏、映画評論家の森卓也氏の3氏による対談が収録されているのですが、ここでも長部氏と森氏が『摩天楼』を賞賛しています。

長部
2位の『摩天楼』に、ぼくは唸った記憶があります。しかも映画の陰にゲイリー・クーパーとパトリシア・ニールの実際のロマンスがあった。建築家のクーパーが、自分の設計したビルが約束どおりに建てられていないので爆破しちゃうという、ものすごく思い切った映画。キング・ヴィドアは戦前の巨匠で、どっちかというと大味な人、ぼくが生意気盛りの時には尊敬する監督じゃなかったんですが‥‥。でもこの間この人のサイレント映画見たら、ほんと感心しましたけどね。戦前あれほどビッグネームであったのは当然という気がしました。元来が骨太な演出家で、『摩天楼』にその感じがよく出ていた。
キング・ヴィドアの後期の作品の中で、傑出したものじゃないでしょうか。パトリシア・ニールが自殺未遂を冒すんですね、ガラスかなんかで手首を切って。これも当時としては珍しかった。切ってる顔のアップだけなんです。そんな場面は初めて見た、という印象があります。

佐々木
これはまぁ、2位に決まったあとで、なんとかコメントをひねり出してもらったという感じでしょうか。ちなみにドミニク(パトリシア・ニール)が手首を切るのは「自殺未遂」じゃなくて「巻き込まれ偽装」ですね。
宮崎
そうですよね。でも、『摩天楼』の随所にサイレント時代の巨匠ヴィドアならではのシーンが登場するというのは、実際そのとおりです。
佐々木
当然というべきか、『摩天楼』をベスト10に入れているのは、いずれも1992年時点で60歳近く以上の方ですね。
宮崎
1951年の公開時に、16歳~38歳だった方々です。2004年に『水源』の邦訳が出版された時、この世代の多くの方は亡くなっているか、ご存命でも既に70歳以上になっていました。あと10年『水源』の邦訳が早ければ、若い頃『摩天楼』を見てリアルタイムで感銘を受けた多くの方が、「あの映画の原作がついに邦訳された!」と気付いて、話題にしてくれていたんじゃないか‥‥そうすれば日本におけるアイン・ランド受容の歴史も変わっていたんじゃないか‥‥ついそんな想像をしてしまうんですよ。
佐々木
日本の戦後復興期に始まったアイン・ランド受容の大きな流れが、残念ながらいったんほぼ途絶えて、ゼロに近いところからのやり直しになってしまったんですね。ただ、まだバブルに浮かれていた1990年頃の日本で、アイン・ランドを必要としていた人間がどれほどいたかと言うと、ほとんど皆無に近かった気がします。戦後のアイン・ランド受容の歴史がいったん衰滅して、2004年まで再出発を待たなければならなかったのも、ある種の歴史的必然なのでしょう。

6.戦後復興~高度成長期の日本の建設を支えたアイン・ランド

宮崎
今回『摩天楼』・『水源』の建築的背景をレクチャーしていただく建築家の神谷武夫氏は、2004年に発表された『水源』の書評で、次のように書かれています。

《映画 『摩天楼』の原作小説の日本語訳がこの夏に出版された、と言えば、年配の建築関係者なら誰もが エッと驚くことだろう。
映画とは題名が異なる上に、訳書ではそのことが強調されていないし、そのような宣伝もなされなかったから、建築雑誌でも全く紹介されなかったので、この本のことは、建築界にはほとんど全く知られていないからである(出版社の 販売戦略のミスだと言えよう)。
 多くの人はあの映画に原作小説があったということさえ知らないかもしれないが、私以上の年配の建築家なら、一度はあの映画を見たことがあり、強く記憶に残っているはずである(日本での公開は1951年)。 あの映画を見たことが 建築家を志すきっかけになったという人も、私の一世代上の建築家には珍しくない。》
(「フランク・ロイド・ライトをモデルにした小説 『水源』(アイン・ランド著)」
http://www.kamit.jp/11_information/xfountain.htm)

佐々木
実際に映画『摩天楼』を見て建築家になった方が、日本に大勢いたということですね。
宮崎
『摩天楼』がきっかけで建築家になったと、ご本人が証言している例を探してみました。ネットを検索して、何人かの方が見つかりました。たとえば『INAX REPORT』という建築専門季刊誌の2012年1月号で、東孝光さんと古谷誠章さんの2人の建築家が対談しているのですが、この対談で東さんが「『摩天楼』を見て、私は建築家になりたいと思った」と証言しています。

古谷
この辺りで最初の「どうして建築家になったんですか?」という質問に戻りましょうか。これもいろんなところでおっしゃったり書いたりしていらっしゃるので、実はよく知っているんです。映画の『摩天楼』を見たからなんですよね。
そうです。もともと映画が好きで、高校時代にゲーリー・クーパー主演の『摩天楼』を見て、私は建築家になりたいと思った。
古谷
『摩天楼』という映画は、要するに(ルイス・)サリバン的なものが没落していって、(フランク・ロイド・)ライト的なものが台頭してくるという映画だった。それでライトが、私にとっては大変まぶしく、うらやましいというか羨望を抱いたと書いてありました。映画を見た高校生当時は、そういう建築家の思潮に対する知識がまだなかったかもしれないですね。
そうです。映画では、ゲーリー・クーパー扮する建築家が、自分の設計したとおりにつくられなかった建物を壊すんですよ。それが裁判になって、その建築家は信念を訴えて無罪になるんです。ですから、ライトが好きということではなくて、建築家という職業を知ったということですね。そして、信念のある、正義感あふれる建築家という職能に感激したんです。ライトとサリバンについては、当時はもちろん知りませんでした。その後、ライトがモデルになっていることは分かりましたが、ライトというよりも、やはり映画の中の“建築家”が強烈な印象だったという方が合っています。

(INAX REPORT No.189 特集2: 東孝光×古谷誠章「住み方は建築家が定義するものではない。」
http://inaxreport.info/data/IR189/IR189_p22-39.pdf

佐々木
この東孝光さんという方は1933年生まれで、大阪大学名誉教授にもなったたいへん有名な建築家のようですね。

(参考)ウィキペディア「東孝光」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%AD%9D%E5%85%89

宮崎
調べてみたら、東さんは、1970年に大阪吹田で開催された日本万国博覧会で「三井グループ館」というパビリオンを設計しています。僕は父に連れられてあの万博に行っているのですが、この「三井グループ館」に入ったのを覚えてるんですよ。あのパビリオンの形は、40年以上経った今も鮮烈な印象として残ってます。あのパビリオンを設計した人が、あの『摩天楼』を見たことがきっかけで建築家になったのかと思うと、なかなか感慨深いものがあります。
佐々木
アイン・ランドが作った物語が、現実の人間を動かして、戦後日本の都市風景にまで影響を与えているんですね。『摩天楼』のイメージを記憶に刻んだ人々が関わった建築や、そうした建築がそびえ立つ都市のあり方は、そこで暮らし働く日本人の精神にも、目に見えない形で影響を与えているはずです。
宮崎
東さんの代表作に、1966年に東さんの自宅として建てられた「塔の家」があります。この家は、「打放しコンクリート」や「狭小住宅」の先駆けと言われています。この「塔の家」について、ブログで写真入りで詳しく紹介している方がいたので読んでみたのですが*、装飾のない直線的なデザインはハワード・ロークの建築を思わせるものがありました。

*「昭和の名建築・東孝光設計「塔の家」を見学させて戴きました」(今野暁史氏「ライフスタイルをデザインする建築家の・・・ライフスタイル」2010年3月1日)
http://blog.goo.ne.jp/akatuki-design/e/b8028fc9f915204782d9192c3c35f8f7
佐々木
たしかに映画『摩天楼』に登場してもおかしくないたたずまいです。他に、どんな方が『摩天楼』を見て建築家になったと証言していましたか。
宮崎
この杉原健児さんという方は、「ゲイリークーパーの「摩天楼」から40年」と題する文章を、ご自身のホームページで公開されていました。

《ちょうど40年前の1954年、ゲイリークーパー主演の映画「摩天楼」を見て感動し、建築学科に入ることを決めた。あれから40年、建築界にもさまざまな変化があった。それらを振り返りながら足取りをたどって見たい。

■ゲイリークーパーの「摩天楼」が教えてくれたもの
 40年前私は大学2年生、専攻学科を決める時期に入っていた。天文学・応用物理・航空など私の得意な数学・物理が生かせる分野に触手を動かしていた。一方、大学の寮生活で揉まれたせいか、今まで嫌いだった人間に興味を持ち始めていた。戦後の焼け跡の面影を残す東京の街に、暗い表情でうごめく人々を見るにつけ、この人たちに幸せをもたらす仕事をしたい気持ちにもなってきていた。
 理工学部という非人間的分野の中で、唯一人間生活を包む容れ物を作れるのは建築かな、と思い始めていたときである。その時見たこの「摩天楼」は強烈に私の心を動かした。この映画はもう一つのことを私に教えてくれた。それは自分の信念が曲げられることに対しては、爆破という暴挙をもってしても阻止したことであった。自分の財産・身体を張って自らの信念を貫く強烈な精神であった。
〔中略〕

■ゲイリークーパーの「摩天楼」から40年
 大学時代の夢「摩天楼」から40年がたった。ゲイリークーパーが「摩天楼」に、信念をもって全身全霊で打ち込んだように、私は今21世紀に向けての、素晴らしい「まちづくり」「国づくり」のために、信念をもって力のある限り、がんばりたいと思っている。》*

*「ゲイリークーパーの「摩天楼」から40年」(杉原健児氏ホームページ掲載「2008年11月11日「ミニ講演」のプロローグとしての資料」)
http://net.a.la9.jp/kk/kk-kaiho/kk-2008/2008-72/p-03.html
佐々木
プロフィールによると、杉原さんという方は1933年福岡県八幡市生まれ、東京大学理工学部建築学科を卒業し、1957年に㈱日建設計という建築設計事務所に入社して建築構造設計に従事。その後㈱日建ハウジングシステムに出向して自動製図システム開発室長、環境アセスメント室長、コンピュータ部長、計画事務所長、都市経営フォーラム事務局などを歴任し、1997年に定年退職したそうです。世界貿易センタービル、新宿住友ビル、群馬県庁舎、名鉄バスターミナルビルなど、多くの建築の構造設計・構造計画に携わったようです。
実は今回、『摩天楼』DVDの上映会を開催するにあたり、杉原さんに「建築家としてのお仕事・人生と『摩天楼』の関わりについてお話いただけませんか?」とお願いのメールを送りました。「参加者のためになるお話ができる自信がありません」とのことで、スピーチは引き受けていただけませんでしたが、《今年12月で80才になりますが、青春の1ページ懐かしくかみ締めました[‥‥]私は、その映画がきっかけで建築界に進みましたが、あくまでもきっかけだけで、それ以上でも以下でもありません。ただその精神は少し受け継いだかも知れません[‥‥]》と、ていねいなお返事をいただきました。
宮崎
他には、中学生時代に見た『摩天楼』に強烈な印象を受けて建築学科に進んだ、とブログに書いている方もいました。この方は、友人3人で集まってワインを飲んでいる時『摩天楼』の話をしたら、棟梁をしている友人の一人が、『摩天楼』のあらすじについて詳細に語り始めた、というエピソードも書かれていました。

《先日「いくらを訪ねて」の作者・伊倉さんと、東京生まれの東京育ちで気の合う年配の棟梁と3人で、フランスのシャトーマルゴーを呑もうということで集まったんですが、仏産のワインというのは私の聞き違いで、南アフリカのケープルージュの赤でした。
 それでも滅多に南アのワインは、呑むこともありませんでしたので、とりあえず南アのシャトーマルゴーということで、3人でお馬さんの話や映画の話、将棋の話をして楽しみました。
 棟梁は駅前の成城石井でブルゴーニュルージュとカマンベールチーズを買って来て、酒宴を盛り上げてくれました。
 私が建築のデザインを心がけるようになった、ゲーリークーパー主演の映画「摩天楼」について話題が変わると、棟梁がとつとつとそのあらすじを話し始めたのです。
古い映画のDVDは500円位で、市販されているのですが、どういうわけか「摩天楼」は、まだ安価に市販されてはいないのです。
 私の中学生時代の記憶では、ゲーリークーパー主演の建築家が、自分の思ったように建てられていないということで、建物を爆破してしまうという。
そんな建築家という職業に強烈な印象を持ち、それ以来大学は建築学科を受験しようと、決めていたのです。
 棟梁は、私のアバウトな記憶は論外とばかりに、その詳細なあらすじを解説するではありませんか。
映画が好きであったからこそ、その記憶が消えないのだと、改めて棟梁に頭が下がる思いがいたしました。
 そんな話も盛り上がり効果をあげ、南アのシャトーマルゴーとブルゴーニュルージュを、美味しく呑むことができました》*

*「南アのシャトーマルゴーを呑みながら映画・摩天楼を語る棟梁」 (「ひとり座禅のすすめ」2011年1月10日
http://blog.goo.ne.jp/goot1912/c/40f9e3377f8d4a279f1745416749619c/2
佐々木
建築家や棟梁として実際に建築に携わっている方が、この映画を愛しているというのは、アイン・ランド・ファンとして嬉しいですね。
宮崎
おそらく80歳近い棟梁の方が『摩天楼』のストーリーを熱く語っている姿というのは、それ自体まるで映画の1シーンのような光景です。なんかマイク・ドニガンを想起させますね。『摩天楼』を公開当時に見た世代で、ネットで情報発信する方は珍しいでしょうから、『摩天楼』がきっかけで建築家になった方は、他にもまだたくさんご存命だと思います。既に亡くなられた方を含めれば、相当な数の方が『摩天楼』を見て建築家になっているはずです。
佐々木
戦後まもない日本で、約75万人の日本人が『摩天楼』を見ていると推定されるわけですからね。10代の観客が1割として約7万人、そのうち0.1%の職業選択に影響を与えたとして、建築の仕事を選んだ方が70人くらいいても、不思議ではありません。
宮崎
藤森かよこさんが、2012年の福島での講演DVDで、「アイン・ランドの思想がいちばんまっとうに理解されて、まっとうに実践されるのは、この日本だと思っています」とおっしゃってましたよね。あらためて指摘しておきたいのは、60年以上前に映画『摩天楼』が公開された時から、日本人はアメリカ人よりずっとまっとうに、先入観なしに、アイン・ランドの思想を理解し、実践していたということです。日本におけるアイン・ランド受容はとっくの昔に始まっていて、映画を通じてアイン・ランドの思想を何らかの形で受け取った人たちが、戦後復興期から高度成長期の日本の建設を、実際に担ったのではないかということです。
佐々木
たいへん感動的なことだと思います。

7.“海賊とよばれた男たち”は『摩天楼』を見ていた?

宮崎
今度の「東京アイン・ランド読者会」での藤森さんの講演の演題は、「アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』と百田尚樹『海賊とよばれた男』-----日本人にとってのアイン・ランドの意義」とのことでした。
佐々木
百田尚樹の『海賊とよばれた男』は、出光興産の創業者の出光佐三(いでみつ・さぞう1885-1981)氏をモデルにした小説で、1953年の「日章丸事件」をモチーフにしているとのことです。
宮崎
僕も小説を読むまではまったく知らなかったのですが、日章丸事件というのは、出光興産が、当時石油を国有化し英国と抗争中だったイランから、英国海軍の海峡封鎖をかいくぐって石油輸送船「日章丸二世」でガソリン・軽油2万2千キロℓを買いつけ、積荷の所有権を主張する英国の石油メジャーと法廷で争うことになった事件です。

(参考)
ウィキペディア「出光佐三」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%85%89%E4%BD%90%E4%B8%89
出光興産ホームページ-「社史(沿革)」-「メジャー支配に挑戦した「日章丸事件」」
http://www.idemitsu.co.jp/company/history/4.html

佐々木
藤森さんによれば、この小説で描かれているのは、“肩をすくめないアトラス”であるとのことです*。

*「9月15日第4回「東京アイン・ランド読者会」が東京で開催されます!
[07/15/2013]」(「藤森かよこの日本アイン・ランド研究会」-「アキラのランド節」)
http://www.aynrand2001japan.com/akira/akira20130715.html

宮崎
藤森さんの「アキラのランド節」を読んで、僕も『海賊とよばれた男』を読んでみたんですが、途中で「アレッ!?」と思ったシーンがあったんです。
佐々木
どんなシーンですか。
宮崎
戦争で出征していた出光興産の社員が、終戦で帰ってきて焼け野原になった東京を見て、もう本社も焼けてしまったかなと思いながら銀座まで歩いて来て、歌舞伎座の隣に残っていた本社を見て、「あった!」って叫んで涙を流すんです。僕が「アレッ!?」と思ったのは、銀座の歌舞伎座といったら、1950年に『摩天楼』の封切館になった東劇の、目と鼻の先なんです。出光興産の社史を調べたら、実際に当時の本社ビルは、歌舞伎座の隣、東劇の斜め前にあったんですね。今は有楽町に移転してますけど。
佐々木
先ほどの話では、東劇は終戦後しばらく東京の歌舞伎上演の中心で、東劇が映画館として再スタートした時のこけら落としが、『摩天楼』だったとのことでした。
宮崎
これ、出光興産の社員たち、『摩天楼』見てるよね‥‥って思ったんです。会社の斜め前にある名門劇場が、新しく映画館になって、その最初の上映作品なんですよ。大きな看板を掲げて、宣伝もたくさんしただろうし、ずいぶん話題になったはずです。
佐々木
当時の映画は娯楽の中心でしょうしね。
宮崎
誰も見てないと思うほうが不自然だし、むしろ相当な数の社員が見たと思うんです。日章丸二世がイランに派遣されたのは、1953年の3月です。日章丸二世の竣工が1951年。石油メジャーの支配に屈せず、イランへのタンカー派遣を計画・実行した出光興産の社員たちを、『摩天楼』で世間に屈せず信念を貫くハワード・ロークのストーリーが、どこかで鼓舞していたんじゃないか‥‥というのはあくまで僕の妄想ですが。
佐々木
じゅうぶんあり得る話だと思います。あそこまで過激に自分の信念を貫くことを賛美する物語って、そうないでしょうから。
宮崎
たとえ出光興産の社員たちが、『摩天楼』のストーリーを思い出しながら石油メジャーに挑戦したわけではなくても、映画って、見た人に何かしらの影響を与えてしまうものだと思うんです。本人が意識しているかどうかは問わず。むしろ何の影響も与えなかったと考えるほうが不自然です。
佐々木
『摩天楼』は特にそうでしょう。
宮崎
そう考えると、映画『摩天楼』が現実の日本社会に与えた影響って、建築の世界にとどまらないはずですよね。あの映画を見た何十万という日本人が、それぞれの職業で、目に見えない形であの映画の影響を受けながら、戦後復興期から高度成長期の日本を生きたのではないでしょうか。まったく検証のしようもない妄想なのですが。
佐々木
たとえ真偽を検証できなくても、たぶんそう信じたほうが、この映画を自分の人生の糧にできますよ。石油メジャーの支配に挑戦した出光興産社員たちも、戦後日本の復興と高度成長を支えた建築家たちも、この映画を思い出して発奮したと想像すれば、なんだか励まされるじゃないですか。そういう受け取り方こそ、アイン・ランドが読者や映画鑑賞者に望んだ受け取り方だと思いますね。