PLAYBOYのインタビューは、文学、とくに長編小説をあまり読まないランド読者の拡大に貢献したが、以下はこのインタビューによりアイン・ランドに出会って「人生が変わり」、40年後にニューヨークのオークションでランド自身の修正が入ったゲラを数百万円で落札したドン・ハウプトマン氏のエッセイである。
アイン・ランドへのPLAYBOYインタビューの「失われていた」部分
2004年3月1日 ドン・ハウプトマン
40年前の今月、「PLAYBOY」誌1964年3月号にアイン・ランドへのインタビューが掲載された。
このインタビューの掲載は、ランドにとってもオブジェクティビズムにとっても意義深い出来事だったと言えよう。「PLAYBOY」誌は、ランドに自身の哲学について説明し幅広いトピックについて論じる場を提供した、最初のマスメディアの一つだった。彼女は形而上学から認識論、性道徳、宗教、政治、芸術に至るまで、あらゆることについて論じた。インタビュアーは後に『未来の衝撃』で著名になったアルビン・トフラーだった。
ランドの著書や思想がメディアでしばしば中傷・歪曲されていた時代に、トフラーと「PLAYBOY」編集部は、彼女を真正面から、敬意をもって扱った。記事の冒頭では、ランドを「今日のアメリカでもっとも舌鋒鋭い――そしてもっとも重要な――知的発言者の一人」と位置づけている。ランドの論説集がまだほとんど出版されていなかった当時、この記事は、ランドの見解の最高の包括的な紹介として役立った。
掲載号の表紙で打ち出されていたのが「ロシアそして鉄のカーテン諸国の女たち」というグラビア記事だったのは、ぴったりだと感じた読者もいただろうし、不調和だと感じた読者もいただろう。
ランドは否定しただろうが、インタビューの中でランドが表明した見解は、彼女が現代フェミニズムの先駆者だったことを示していると考える論者も多い。彼女はすべての女性が職業に就くべきであり、職業選択について「男性にとって適切であることは女性にとっても適切」だと主張している。それ以外にも彼女の発言の多くが、40年経った今日でも驚くほど当を得ており、時宜にかなっている。たとえば彼女は国連を痛罵し、米国には独裁国を侵攻する道徳的権利があると主張している。
このインタビューはどのような影響をもたらしてきただろうか? 当時「PLAYBOY」誌は250万部発行されていた。ランドとその思想・著作を、広く新しい読者に紹介したことは間違いない。
だがこのインタビューは、「PLAYBOY」掲載後も長く命と影響力を保ち続けた。後に出版されたPLAYBOYインタビュー選集に全文が収録され、デイビット・ボアズの『リバタリアン読本』(The Libertarian Reader、The Free Press、1997)にも全文が収録された。他にも多くの本で抜粋が掲載され、言及されている。アトラス・ソサエティとアイン・ランド協会がこの記事を冊子化し、販売し続けている。今日に至るまで、このインタビュー記事はランドとオブジェクティビズムへの優れた手引きになっている。
トーマス・ワイヤーは著書『パラダイスへ手を伸ばして:PLAYBOYビジョン・オブ・アメリカ』(Reaching for Paradise: The Playboy Vision of America、Times Books、1978)で、同じ時代のサルバドール・ダリからジャン=ポール・サルトルまで及ぶPLAYBOYインタビューを挙げた後、こうコメントしている。「だがトフラーが1964年にPLAYBOYのために捕まえた真の極楽鳥は、アイン・ランドであった。ランドは、PLAYBOY誌で発言の場を提供された最初の女性知識人だった。ランド女史は期待を裏切らなかった。彼女は、トフラーの質問をロシア皇帝の騎兵隊のように圧倒する舌鋒鋭い主張で、インタビューを支配した」。
時は流れて
2003年12月17日、ニューヨークの名門オークションハウスであるクリスティーズは、「PLAYBOY」50周年記念行事の一環として、同誌のアートワーク、書類、記録の大オークションを実施した。出品物の一つに、アイン・ランドへのインタビュー記事の元タイプライター原稿、校正刷り、通信、写真、およびその他の関連品から成るロットがあった。
これらの書類には、ランドの手書きによる詳細な訂正・変更が行われていた。編集者への指示や連絡も走り書きしてあった。ランドはトフラーによる序文さえ編集し、自分の回答だけでなく、自分への質問まで一部修正していた。
筆者は、オークション前日に開催された展示会を見にクリスティーズに出かけた。これらの書類が目に入るや筆者は心を奪われ、自分のものにしようと決意した。なぜか? 筆者が1964年に16歳でアイン・ランドに出会ったのが、まさにこのインタビュー記事だったからだ。多くのオブジェクティビストが口にするように、アイン・ランドとの出会いは筆者の人生を変えた。その後何年にもわたり、筆者はこの記事のコピーを友人に――特に長い小説を読むことに抵抗がありそうな友人に――配り続けた。
翌日、少々白熱した競り合いの後、ハンマーが打ち下ろされ、筆者はこの注目すべきアーカイブの所有者になった。偶然にも、このインタビュー記事が出てあと数ヶ月で40周年になるタイミングだった。
手に入ったお宝の数々
筆者がこのアーカイブを入手した動機は、個人的な共鳴だけではなかった。ランドのファン、研究者、および学者にとって真に歴史的な価値を持つ、きわめて内容豊かで重要な資料であるという認識も、大きな動機になった。これらの資料が40年にわたって公の目から隠され、ランド鑑定家にも知られていなかったことも、ドラマ性を高めていた。
1998年と2000年に開催されたランド関係限定の蒐集品オークションに、筆者は足を運んでいる。出品された文書の中には興味を惹かれるものもあったが、知的あるいは文学的に重要な文章はほとんどないように見えた。未発見の内容や、ランドの思想への新鮮な洞察を提供する文章は、ほとんどなかった。だがこのアーカイブには、それが間違いなくあった――ことによるとそれ以上のものが。
筆者は知りたかった――いったいどんな内容が出版前に削除されたのか? ランドが自ら発言しながらあとで修正することに決めたのは、どんな内容だったのか? ランドと「PLAYBOY」編集部は互いをどう見ていたのか? どんなやり取りがランドと編集部の間にあったのか?
アーカイブを初めて調べるのは、エキサイティングな経験だった。なんと魅力的なコレクションだろう! ランドによる、そして編集部による様々な修正が目に入った。出版されたバージョンとの違いが数多く見つかった。丸ごと削除されていた問いと答えもあった。「AR」のイニシャルが、原稿の全ページに、ランド自身によるごく細かい修正にまで記されていた。
ゲラ刷りの余白には、ランドによる書き込みがびっしりとあった。だが筆者はすぐ気がついた――この経年劣化でセピア色に変色した紙を、どれほど慎重に取り扱わなければならないかを。パソコンもワープロもなかった時代のゲラ刷りは、編集用の活字組みテキストが1カラムに打たれた、細長い紙だった。新聞紙のような安価な酸性紙が使われていたため、皮肉にもこのアーカイブの最も貴重な部分が、最ももろく壊れやすい部分になっていた。
公開されなかった部分
ここで削除された部分を見てみよう。公開されるのは今回が初めてである。インタビューの最初の部分に、「イデオロギーに対する幅広い反感」という重要な問題に焦点を当てたやり取りがあった。
- PLAYBOY
- 過去に哲学者たちは、世界にさまざまな体系を提案してきました。しかしそれらの体系はしばしば労役、査問、粛清といった恐ろしい結果をもたらしました。哲学体系を構築すること自体に、何か本質的に不寛容につながるものがあるのではないでしょうか。世界観は、包括的であることを目指すものです。しかもきわめて整然としていて、見たところ単純です。こうした性格がファシズムを引き寄せ、助長することはありませんか?
- ランド
- まさかあなたも「知識と一貫性は危険だが、無知と無定見は安全だ」とは言わないでしょう? ファシズムにつながるのは不合理性です。破壊につながるのは無定見です。人間は、哲学を必要としているという事実から逃れられません。問われるべきは「それがどんな哲学なのか?」ということだけです。「生産は良い」と一貫性を持って信じる人と、「強盗は良い」と一貫性を持って信じる人がいたら、両者の一貫性の本質と結果は同じではありません。たしかに、あなたが挙げた暴虐は哲学が引き起したものです。ただしそれらを引き起こしたのは、誤った哲学なのです。それらは、一般的な意味において私がプラトン学派と呼ぶものの、不合理な影響によって引き起こされたのです。
女性の役割とキャリアに関する問答の後、次のやり取りがされていた。ランドはこの部分を、校正の段階で削除することに決めた。おそらく彼女は、自分が質問に十分答えていないと理解したのだろう。短く完全に回答するのは、困難もしくは不可能と判断したのだろう。
- PLAYBOY
- 『肩をすくめるアトラス』で、あなたは「稼いでいないものは求めることも与えることもできない」と書いています。これは援助や物質的サポートだけでなく、愛についても言えることですか?
- ランド
- ええ。
- PLAYBOY
- そうするとなぜ母親は、生まれたばかりの赤子を愛するべきなのでしょう? 生まれたばかりの赤子は、母親の愛を「稼ぐ」ことを何もしていないのでは?
- ランド
- 真面目に聞いているわけではないでしょう? 第一に、その母親が責任ある合理的人物なら、偶然に子供をつくったりはしません。自分の選択によって子供をつくるはずです。生まれたばかりの子供は母親にとって、自分が――少なくとも肉体的には――創った人間であるというだけの理由で、価値を持ちます。子供の両親は、子供が21歳になるまでは、すなわち自分で自分の面倒を見ることができるようになるまでは、面倒を見る義務を負います。これは、合理的な両親が子供を持つと決めた段階で受け入れた義務であり、選択された義務です。彼らには、自分自身の決断の結果を受け入れる義務があります。しかし、両親は子供を愛さなければならないかと言えば、必ずしもそうとは限りません。それは、子供が成長していったときの人格に対する、両親の評価に依るでしょう。両親が子供の愛を「稼ぐ」必要があるように、子供は両親の愛を「稼ぐ」必要があります。
セックスと快楽主義に関する議論の途中で、次の部分が削除されていた。ギャンプル常習者の心理と動機に関するランドの洞察溢れる、そして挑発的な解釈に注目してほしい。
- PLAYBOY
- 他の行為への「選択的で分別ある耽溺」はいかがです? たとえば飲酒やギャンプルは? これらは不道徳ですか?
- ランド
- まず、それらをセックスと同じカテゴリーに入れることはできません。飲酒それ自体は、飲んだくれにでもならない限り、不道徳ではありません。単に酒を飲むことが道徳問題にはなることはありません。思考を阻害されるほど酒を飲んだ場合に限り、飲酒は不道徳になります。意識的でい続ける責任から逃れるために酒を飲むときに限り、飲酒は不道徳になります。私は、たまにギャンプルをする人が不道徳だとは言いません。ギャンプルは重大な問題というより単なる遊びです。しかしギャンプルがたまの遊び以上になったら、不道徳です。それはギャンプルを動機づける前提ゆえに不道徳なのです。ギャンプルへの情熱は、「自分は自分の人生を支配できない」「自分は運命に支配されている」という信念から来ます。だからそのような人は、運命ないし運勢が自分の側にあると自分を安心させたがるのです。
このアーカイブには他にも未公開の資料が含まれているが、上に引用した部分は最も興味深い類だろう。削除箇所が公開されたことで何か大きな驚きをもたらすかと言えば、そんなことはないだろう。ランドは、たとえばカントやカンディンスキーに対する秘めた好意を告白したりはしていない。だがそれでもなお、上記やその他の削除された回答は、彼女の思考に光を当て、彼女が他では論じていないトピックに関する彼女の見解を教えてくれる。
その他の変更
当然ながら、ランドと「PLAYBOY」編集者は綴りや句読法の誤りを修正し、文法・文体上の編集を数多く行っている。これらの変更の大半は瑣末的なものであり、内容や意味に影響を与えるものではない。ただランドが行った微細な変更の一つは、興味深いものだ。ランドは、トフラーの問いから「あなたは……と感じますか?」という表現を排除するため、いくつかの書き換えをしている。認識活動の叙述に感情的な語句を用いることへの、ランドの嫌悪がよく現れている。
ランドは、冒頭部分の全体に直しを入れていた。編集者が削除した問いと答えを復活させていた。意味が明瞭になり、流れがよくなるように、順序を変えていた。ランドが記事の全体に行ったこうした変更は、明らかにこの記事を改善するものだった。
政治に関する問いへの答えの中で、彼女は当初、自分自身を反共主義者と位置づけていた。後に自分の言葉を編集するとき、彼女は考えを改めたらしく、67語を削除して「私は自分の立場を否定によっては表明しません」で始まる回答を書き加えた。
トフラーはインタビューの最後で、ランドに彼女の未来観と、人類の存続を楽観的に見るかどうかを尋ねている。そこに編集部がいったん削除し、彼女が復活させた問いと答えがあった。トフラーは、「人類は存続に価しますか?」と尋ねている。ランドは「人類が存続に値するかですって?」と聞き返し、こう答えていた。「何かに『値する』ものが、他にありますか?」。ランドは再考の後、このやり取りを再び削除し、最終的に記事の結末はあの形になった。
アーカイブには、インタビュー風景を伝えるオリジナル写真3枚と、写真に付けられたキャプションのゲラが含まれる。編集部は原稿をタイプし直した後、キャプションの候補としてインタビュー中の38箇所を検討し、その中から最終候補として3箇所をランドに提示した。ランドは2つを承認したが、3つ目を承認しなかった。3つ目のキャプションは、経済的ボイコットによる共産主義政権崩壊についての発言だった。ランドにははるかに良い案があった。ランドは3つ目のキャプションにバツをつけ、「集団主義は、知的権威や道徳的理想としては、すでに死にました。しかし自由や個人主義、そしてこれらの政治的表現である資本主義は、まだ発見さえされていません」という部分を書き込み、自分のイニシャルを記した。彼女の哲学の精髄を示すこれらの言葉を、彼女自身の手書きで読むのは、彼女の作品のファンにとって心揺さぶられる体験だ。
これらの例が示すように、ランドは単にトフラーの質問に答えたのではなく、このインタビュー記事全体の形成にきわめて能動的な役割を果たした。ランドによる、ときに大幅な修正を伴った編集を見ると、偉大な頭脳が働くさまをまざまざと見ることができる。
ランド自身の評価
どうやらインタビュー対象としてのランドは、彼女のフィクションのヒーローたちと同じくらい非妥協だったようだ。彼女の要求に応じるため、関係者全員が努力したように見える。彼女は出版前に少なくとも3つのバージョンをチェックし、修正し、承認する機会を与えられた。編集者のマレー・フィッシャーからランドに宛てたメッセージは、最後まで丁寧でうやうやしい。
たとえばフィッシャーは、ランドが承認した導入部を書き直し、「私はこの改訂・濃縮した導入部が、あなたにご承認いただけるよう願っています。だだし、希望される場合は遠慮なく修正してください」とゲラに書き込んだ。ランドは断固として応じなかった。彼女は新しいバージョン全体を拒絶し、「導入部はトフラー氏が書いて我々が電話で編集した通りにしてください」と指示した。ランドと編集部の間で意見が割れた他の多くのケースと同様、このケースでも彼女は望み通りの結果を得た。
彼女の批判者でさえ多くが認めるように、ランドは高い基準の持ち主だった。彼女は要求が厳しく、完全主義だった。彼女は自分に関するマスコミ報道のほとんどを嫌悪した。では出版されたこの記事を、彼女はどう見ていただろう。
コレクションの中には、1964年3月14日付けでランドからフィッシャーに書かれた手紙が含まれていた。掲載号がニューススタンドに並び購読者に届いてから、1カ月以上が経って書かれた手紙だ。ランドはこう書いていた。「インタビュー記事の最終的な形に、私はとても満足しています。記事の出来は、私たちの苦労を正当化すると信じます」。たしかにそうだったと、40年後の今日、私たちは同意できると思う。
この記事は「ザ・ニュー・インディビジュアリスト」誌の前身である「ナビゲーター」誌の2004年3月号に掲載され、アトラス・ソサエティのWebサイトに転載されたものです。日本語訳は、ハウプトマン氏およびアトラス・ソサエティの許可を得て掲載しています。
翻訳:2017年 佐々木一郎
アイン・ランドへのPLAYBOYインタビューの「失われていた」部分
2004年3月1日 ドン・ハウプトマン
40年前の今月、「PLAYBOY」誌1964年3月号にアイン・ランドへのインタビューが掲載された。このインタビューの掲載は、ランドにとってもオブジェクティビズムにとっても意義深い出来事だったと言えよう。「PLAYBOY」誌は、ランドに自身の哲学について説明し幅広いトピックについて論じる場を提供した、最初のマスメディアの一つだった。彼女は形而上学から認識論、性道徳、宗教、政治、芸術に至るまで、あらゆることについて論じた。インタビュアーは後に『未来の衝撃』で著名になったアルビン・トフラーだった。
ランドの著書や思想がメディアでしばしば中傷・歪曲されていた時代に、トフラーと「PLAYBOY」編集部は、彼女を真正面から、敬意をもって扱った。記事の冒頭では、ランドを「今日のアメリカでもっとも舌鋒鋭い――そしてもっとも重要な――知的発言者の一人」と位置づけている。ランドの論説集がまだほとんど出版されていなかった当時、この記事は、ランドの見解の最高の包括的な紹介として役立った。
掲載号の表紙で打ち出されていたのが「ロシアそして鉄のカーテン諸国の女たち」というグラビア記事だったのは、ぴったりだと感じた読者もいただろうし、不調和だと感じた読者もいただろう。
ランドは否定しただろうが、インタビューの中でランドが表明した見解は、彼女が現代フェミニズムの先駆者だったことを示していると考える論者も多い。彼女はすべての女性が職業に就くべきであり、職業選択について「男性にとって適切であることは女性にとっても適切」だと主張している。それ以外にも彼女の発言の多くが、40年経った今日でも驚くほど当を得ており、時宜にかなっている。たとえば彼女は国連を痛罵し、米国には独裁国を侵攻する道徳的権利があると主張している。
このインタビューはどのような影響をもたらしてきただろうか? 当時「PLAYBOY」誌は250万部発行されていた。ランドとその思想・著作を、広く新しい読者に紹介したことは間違いない。
だがこのインタビューは、「PLAYBOY」掲載後も長く命と影響力を保ち続けた。後に出版されたPLAYBOYインタビュー選集に全文が収録され、デイビット・ボアズの『リバタリアン読本』(The Libertarian Reader、The Free Press、1997)にも全文が収録された。他にも多くの本で抜粋が掲載され、言及されている。アトラス・ソサエティとアイン・ランド協会がこの記事を冊子化し、販売し続けている。今日に至るまで、このインタビュー記事はランドとオブジェクティビズムへの優れた手引きになっている。
トーマス・ワイヤーは著書『パラダイスへ手を伸ばして:PLAYBOYビジョン・オブ・アメリカ』(Reaching for Paradise: The Playboy Vision of America、Times Books、1978)で、同じ時代のサルバドール・ダリからジャン=ポール・サルトルまで及ぶPLAYBOYインタビューを挙げた後、こうコメントしている。「だがトフラーが1964年にPLAYBOYのために捕まえた真の極楽鳥は、アイン・ランドであった。ランドは、PLAYBOY誌で発言の場を提供された最初の女性知識人だった。ランド女史は期待を裏切らなかった。彼女は、トフラーの質問をロシア皇帝の騎兵隊のように圧倒する舌鋒鋭い主張で、インタビューを支配した」。
時は流れて
2003年12月17日、ニューヨークの名門オークションハウスであるクリスティーズは、「PLAYBOY」50周年記念行事の一環として、同誌のアートワーク、書類、記録の大オークションを実施した。出品物の一つに、アイン・ランドへのインタビュー記事の元タイプライター原稿、校正刷り、通信、写真、およびその他の関連品から成るロットがあった。これらの書類には、ランドの手書きによる詳細な訂正・変更が行われていた。編集者への指示や連絡も走り書きしてあった。ランドはトフラーによる序文さえ編集し、自分の回答だけでなく、自分への質問まで一部修正していた。
筆者は、オークション前日に開催された展示会を見にクリスティーズに出かけた。これらの書類が目に入るや筆者は心を奪われ、自分のものにしようと決意した。なぜか? 筆者が1964年に16歳でアイン・ランドに出会ったのが、まさにこのインタビュー記事だったからだ。多くのオブジェクティビストが口にするように、アイン・ランドとの出会いは筆者の人生を変えた。その後何年にもわたり、筆者はこの記事のコピーを友人に――特に長い小説を読むことに抵抗がありそうな友人に――配り続けた。
翌日、少々白熱した競り合いの後、ハンマーが打ち下ろされ、筆者はこの注目すべきアーカイブの所有者になった。偶然にも、このインタビュー記事が出てあと数ヶ月で40周年になるタイミングだった。
手に入ったお宝の数々
筆者がこのアーカイブを入手した動機は、個人的な共鳴だけではなかった。ランドのファン、研究者、および学者にとって真に歴史的な価値を持つ、きわめて内容豊かで重要な資料であるという認識も、大きな動機になった。これらの資料が40年にわたって公の目から隠され、ランド鑑定家にも知られていなかったことも、ドラマ性を高めていた。1998年と2000年に開催されたランド関係限定の蒐集品オークションに、筆者は足を運んでいる。出品された文書の中には興味を惹かれるものもあったが、知的あるいは文学的に重要な文章はほとんどないように見えた。未発見の内容や、ランドの思想への新鮮な洞察を提供する文章は、ほとんどなかった。だがこのアーカイブには、それが間違いなくあった――ことによるとそれ以上のものが。
筆者は知りたかった――いったいどんな内容が出版前に削除されたのか? ランドが自ら発言しながらあとで修正することに決めたのは、どんな内容だったのか? ランドと「PLAYBOY」編集部は互いをどう見ていたのか? どんなやり取りがランドと編集部の間にあったのか?
アーカイブを初めて調べるのは、エキサイティングな経験だった。なんと魅力的なコレクションだろう! ランドによる、そして編集部による様々な修正が目に入った。出版されたバージョンとの違いが数多く見つかった。丸ごと削除されていた問いと答えもあった。「AR」のイニシャルが、原稿の全ページに、ランド自身によるごく細かい修正にまで記されていた。
ゲラ刷りの余白には、ランドによる書き込みがびっしりとあった。だが筆者はすぐ気がついた――この経年劣化でセピア色に変色した紙を、どれほど慎重に取り扱わなければならないかを。パソコンもワープロもなかった時代のゲラ刷りは、編集用の活字組みテキストが1カラムに打たれた、細長い紙だった。新聞紙のような安価な酸性紙が使われていたため、皮肉にもこのアーカイブの最も貴重な部分が、最ももろく壊れやすい部分になっていた。
公開されなかった部分
ここで削除された部分を見てみよう。公開されるのは今回が初めてである。インタビューの最初の部分に、「イデオロギーに対する幅広い反感」という重要な問題に焦点を当てたやり取りがあった。セックスと快楽主義に関する議論の途中で、次の部分が削除されていた。ギャンプル常習者の心理と動機に関するランドの洞察溢れる、そして挑発的な解釈に注目してほしい。
このアーカイブには他にも未公開の資料が含まれているが、上に引用した部分は最も興味深い類だろう。削除箇所が公開されたことで何か大きな驚きをもたらすかと言えば、そんなことはないだろう。ランドは、たとえばカントやカンディンスキーに対する秘めた好意を告白したりはしていない。だがそれでもなお、上記やその他の削除された回答は、彼女の思考に光を当て、彼女が他では論じていないトピックに関する彼女の見解を教えてくれる。
その他の変更
当然ながら、ランドと「PLAYBOY」編集者は綴りや句読法の誤りを修正し、文法・文体上の編集を数多く行っている。これらの変更の大半は瑣末的なものであり、内容や意味に影響を与えるものではない。ただランドが行った微細な変更の一つは、興味深いものだ。ランドは、トフラーの問いから「あなたは……と感じますか?」という表現を排除するため、いくつかの書き換えをしている。認識活動の叙述に感情的な語句を用いることへの、ランドの嫌悪がよく現れている。ランドは、冒頭部分の全体に直しを入れていた。編集者が削除した問いと答えを復活させていた。意味が明瞭になり、流れがよくなるように、順序を変えていた。ランドが記事の全体に行ったこうした変更は、明らかにこの記事を改善するものだった。
政治に関する問いへの答えの中で、彼女は当初、自分自身を反共主義者と位置づけていた。後に自分の言葉を編集するとき、彼女は考えを改めたらしく、67語を削除して「私は自分の立場を否定によっては表明しません」で始まる回答を書き加えた。
トフラーはインタビューの最後で、ランドに彼女の未来観と、人類の存続を楽観的に見るかどうかを尋ねている。そこに編集部がいったん削除し、彼女が復活させた問いと答えがあった。トフラーは、「人類は存続に価しますか?」と尋ねている。ランドは「人類が存続に値するかですって?」と聞き返し、こう答えていた。「何かに『値する』ものが、他にありますか?」。ランドは再考の後、このやり取りを再び削除し、最終的に記事の結末はあの形になった。 アーカイブには、インタビュー風景を伝えるオリジナル写真3枚と、写真に付けられたキャプションのゲラが含まれる。編集部は原稿をタイプし直した後、キャプションの候補としてインタビュー中の38箇所を検討し、その中から最終候補として3箇所をランドに提示した。ランドは2つを承認したが、3つ目を承認しなかった。3つ目のキャプションは、経済的ボイコットによる共産主義政権崩壊についての発言だった。ランドにははるかに良い案があった。ランドは3つ目のキャプションにバツをつけ、「集団主義は、知的権威や道徳的理想としては、すでに死にました。しかし自由や個人主義、そしてこれらの政治的表現である資本主義は、まだ発見さえされていません」という部分を書き込み、自分のイニシャルを記した。彼女の哲学の精髄を示すこれらの言葉を、彼女自身の手書きで読むのは、彼女の作品のファンにとって心揺さぶられる体験だ。
これらの例が示すように、ランドは単にトフラーの質問に答えたのではなく、このインタビュー記事全体の形成にきわめて能動的な役割を果たした。ランドによる、ときに大幅な修正を伴った編集を見ると、偉大な頭脳が働くさまをまざまざと見ることができる。
ランド自身の評価
どうやらインタビュー対象としてのランドは、彼女のフィクションのヒーローたちと同じくらい非妥協だったようだ。彼女の要求に応じるため、関係者全員が努力したように見える。彼女は出版前に少なくとも3つのバージョンをチェックし、修正し、承認する機会を与えられた。編集者のマレー・フィッシャーからランドに宛てたメッセージは、最後まで丁寧でうやうやしい。たとえばフィッシャーは、ランドが承認した導入部を書き直し、「私はこの改訂・濃縮した導入部が、あなたにご承認いただけるよう願っています。だだし、希望される場合は遠慮なく修正してください」とゲラに書き込んだ。ランドは断固として応じなかった。彼女は新しいバージョン全体を拒絶し、「導入部はトフラー氏が書いて我々が電話で編集した通りにしてください」と指示した。ランドと編集部の間で意見が割れた他の多くのケースと同様、このケースでも彼女は望み通りの結果を得た。
彼女の批判者でさえ多くが認めるように、ランドは高い基準の持ち主だった。彼女は要求が厳しく、完全主義だった。彼女は自分に関するマスコミ報道のほとんどを嫌悪した。では出版されたこの記事を、彼女はどう見ていただろう。
コレクションの中には、1964年3月14日付けでランドからフィッシャーに書かれた手紙が含まれていた。掲載号がニューススタンドに並び購読者に届いてから、1カ月以上が経って書かれた手紙だ。ランドはこう書いていた。「インタビュー記事の最終的な形に、私はとても満足しています。記事の出来は、私たちの苦労を正当化すると信じます」。たしかにそうだったと、40年後の今日、私たちは同意できると思う。
この記事は「ザ・ニュー・インディビジュアリスト」誌の前身である「ナビゲーター」誌の2004年3月号に掲載され、アトラス・ソサエティのWebサイトに転載されたものです。日本語訳は、ハウプトマン氏およびアトラス・ソサエティの許可を得て掲載しています。
翻訳:2017年 佐々木一郎